工藤泰造の
大切な「こと」と「ことば」

代表/工藤泰造(たいぞう)プロフィール
1959年生まれ、七飯町出身、函館商業高校卒
七飯町にて1868年より続く農業、1981年に5代目として受け継ぐ。1990年より2年間、青年海外協力隊員として、パプアニューギニアで野菜の生産指導に挑んだ経験から、農業への見方が一新される。生産から、販売、消費まで計画的に行う重要性を感じ、農家直営店として、1992年に「ハウス工藤園芸」の設立。単に仕入れ販売を行うのではなく、野菜や苗を自家生産し提供、人に優しい、おいしい、ハウス工藤園芸ならではの商品作りに力を注いでいる。
<メディア掲載歴>
NHK番組、テレビ[太川陽介北海道移住計画]、北海道新聞函館版みなみ風、道新文化センター函館教室講師、七飯町大沼老人大学講師、農業新聞掲載、FMいるか「人ネットワーク」
北海道七飯から海外青年協力隊員に志願した理由
私は米農家として5代目。高校卒業2年後、家業に入りました。当時、日本では米が余り、生産調整が始まった頃です。水田は休むこととなり、そのかわりにハウスでの野菜作りが本格化しました。
世界の農業事情の例として、ヨーロッパでは農業の位置づけが高い。フランスでは麦(パン)は、三年前に生産したものを食べているといわれています。なぜなら、不作の時に備えて、古いものをあえて食べる文化、国だからです。しかし、日本では消費者も新米しか食べない。だから、古米、古古米と、どんどん古い米が余っていく。
世界では食べられない人がたくさんいるのに、我々日本人は、平気で食料を捨て、粗末にしています。
よその国では、食料を得ることができず、餓死している国もあるというのに、矛盾した世の中が私には理解できませんでした。
資源もなく土地も広くない日本で、今後の農業はいかにあるべきなのでしょうか。今後は、農業が職業として成り立っていくのかもわかりません。食料の自給ができない国は文化が発達しない、そんな教育を受けてきたはずなのに・・・。
そんなことを疑問に感じていたある日、海外青年協力隊のことを知ったのです。
「日本の外から日本を見られれば、今までの経験を生かせ、今後の生き方が見えるのでは?」
「世界の食糧事情がわかるのでは?」
「食べられない人々のために全力で取り組みたい」
「食料の生産の増産をすることにより役に立ちたい」
と強く思うようになりました。

パプアニューギニアでの失敗経験が
野菜の生産指導としてパプアニューギニアに2年間。現地で野菜の増産を手がけました。それが、帰る頃には野菜を作りすぎて売れなくなってしまったんです。現地では買える人が少ないことが原因でした。
せっかく生産したのに現地の人に本当に申し訳なかった、生産するだけではなく、販売、消費まで見すえて計画的に行わなければならないことがわかっていませんでした。
日本では考えられないことがおきてしまったんです。日本では分業化、専門化が進み、作る人は作るだけ。売る人は売るだけを考えていればよいからです。発展途上国では、専門の知識だけでは通用しません。ありとあらゆる知識が必要とされました。
外国に行って外から日本を見られて、世界の動きが分かったような気がします。

帰国後に「夢」が見える!
帰国後はせっかく所有している農地、機械 設備、北海道の恵まれた四季のある天候、十分に雨があり、食糧生産のできるせっかくの条件。それを生かすべしと思いました。今の日本では飢餓で死ぬ人はまずいません。核家族化が進み、俗にいう「あまされた老人」がたくさんいます。人は一生活躍できます。定年退職したからといって、家にいるだけではもったいない、できることはたくさんあります。
私はパプアニューギニアでの青年海外協力隊員の仕事を終えてから、老人や、親のいない子供たちと畑仕事をいっしょに楽しみながら、すべての世代が活躍できる施設を作りたくなりました。働ける老人や子どもたちと、プルーンやさくらんぼなどの果樹園や、野菜畑を作り、生産したいと夢を抱いていました。
しかしながら、娯楽的に楽しみ、遊ぶだけではだめだと思いました。販売も視野にいれ、仕事として取り組んだほうが生きる張り合いにもなるからです。パプアニューギニアでは、個人主義は成り立たず、貧しいがゆえに生きていかれず、皆で助け合って暮らしていました。食べるものを生産することで、協力して、労働し、一緒に生きられる、そんな施設を作りたくなったのです。

残念ながら、夢は破れたが
しかし残念ながら施設を作りたいという願いは叶いませんでした。
今までどおり農業を営むことになりましたが、以前と違って、生産だけでなく販売、直売も視野に入れて直接消費者に向き合うようになりました。お客様が本当に求めているものは何か。生産者はとにかく市場、スーパー、量販店で売りやすい規格と品質しか考えていません。市場にあわせてばかりの規格品ではなく、自ら本当に生産したいものを作りたい。それができるのが直売店なのではないか?と考えるようになり、直売店であるハウス工藤園芸を北海道七飯の地で始めることとなりました。
夢に向かって挑戦し続けてこそ
いずれまた、死ぬ前に、シニア海外協力隊として発展途上国へ行って自分の知識を役立てたい。との夢も持っています。だからこそ、今ある場所で多くのことにチャレンジし続け学びたい。
一般的にボランティアというと、無償で社会活動に参加する人、日本では施設などで活動する園芸ボランティアなどのイメージがあるかもしれませんが、パプアニューギニアなどの発展途上国の現地の人は、ボランティアや趣味で園芸をするのではなく、生きるための糧としての農業を身につけなければならなりません。つまり、消費者からお金という対価をいただいて、仕事として成立しなければ通用しません。ただ作物を作って趣味で楽しむのとは違い、大変難しい課題をクリアにしなければならないのです。
そのためにもまずは、ハウス工藤園芸でどう目標を達成するか。売り方、作り方、人の動かし方、全てにつうじることであり、一筋縄ではいきません。日々変化、進化し続けていく精神力が問われるのではないのでしょうか。
これらの課題をまず、ハウス工藤園芸で達成してこそ、本当に発展途上国に行って役立てるのではと思い、日々研鑽しています。

楽しみはオリジナルの野菜や植物を育て直売すること
そんな私の今の楽しみは、思いのこもった独自の野菜や生産植物を提供できる直売店をすることです。ところで話は変わりますが、学生時代に、絵画や彫刻の分野で芸術家になりたいという夢がありました。しかしながらその夢がかなうことはありませんでしたが、今、私にとって、花はアート、日々変わるアート、成長するアート、いずれ死んでなくなる作品ではありますが、同じもの、同じ作品は2度とできません。
良い実を生産するには良い花を咲かせなければならなりません。最終目的は実を生産することですが、その前にきれいな花を見るのも楽しめます。自然が相手なので毎回同じではなく、何度やっても難しく、思い通りにできないがゆえに楽しいです。
祖母の言葉とハウス工藤園芸の経営理念
代々続く農家の5代目として生まれたこと、パプアニューギニアでの海外青年協力隊のこと、ハウス工藤園芸での経験を通じて、私の販売理念が明確になりました。
・ 流通過程の利ざやを稼ぐのではなく、単に仕入れてそれを売るのではなく、無から物を生産して販売し、自分の納得できるものを作って売りたい。
・ 規格にとらわれることなく、本当の味を提供したい。
農産物に対する人の好みはさまざまで、個性があります。規格で縛られることにとても違和感を感じているのです。規格外でも必ず価値があり、食べ方によっては逆に価値があがることがあります。見栄を張らず、見た目ではなく、本当に良いもの、美味しいものを提供し続けられるようでありたいです。
ハウス工藤園芸にはいろんな可能性があると思っています。社会的な地位や年齢に関係なく、色んな人と食べて、見て、作って、教え、教えられ、育て、楽しめる場所でありたいです。植物に携わって働くとき、いつも死んだ祖母の言葉「緑を見ていると、目にとっても良いのだよ」を思い出します。人にやさしい、おいしい、ハウス工藤園芸ならではの商品で喜ばれたら。このような思いで日々経営をしています。